ーー家康の永遠の忠臣・本多正信
本多正信は江戸幕府初代将軍・徳川家康の参謀(当時として最高職に相当する地位)につき、家康が没する日まで生涯家康に尽くしました。
皆さんは忠臣と聞くと「命令や任務に忠実な人」であったり、「謀反を起こさない人」というイメージが強いでしょうが、実はこの正信は過去に家康を裏切ったことがあります。
将軍に反旗を翻したにもかかわらず、なぜ家康と主従関係を超えた友情で結ばれ、2人は仲良くやることができたのでしょうか?
彼の人生を紐解けば、その片鱗が少し見えてくるかもしれません。
しかし家康との詳細な親密度は不明です。
どれくらいの関係だったのか知る由はありませんが、あくまで参考程度にとどめてください。
ーー家康といっしょ! の正信
本多正信は松平氏の家系に生まれ、父親や祖父は代々譜代(ふだい)を務めてきた家柄です。
正信は4歳に家康に仕え、幕府側の人間になりますが…
永禄6年(1563年)、三河一向一揆(みかわいっこういっき)が起き、正信は一揆側について家康に敵対心をあらわにするのです。
翌年、家康の軍勢が押し寄せ、正信は放浪に次ぐ放浪の末、加賀(石川県)に落ち延びました。
その後、正信が家康のもとに戻ってきた時期は定かではありません。
一説によれば、正信が元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」で軍功を上げ、それを理由に過去の失態は不問にされた、との事。
ここら辺の詳細は定かではありませんので、敵対した家康とどのようにして関係を修復したのか、謎の深い部分が多いですね。
おそらく家康は本能的な意味で正信に対してだけ実子に近い特別な感情を抱いていたのかもしれません。
(ただ秀忠に対しては厳しい父親でしたが)
さらに正信は家康の参謀として活躍し、正信には1万石に相当する領地を与えられたと言います。
その後、歴史的な大戦「関ヶ原の戦い」が勃発し、このときは正信は家康の息子・秀忠に従い、秀忠が遅参行為をしてしまうために本戦には参加できませんでした。
その後、幕府の中核を担い、家康の参謀かたわら側近として務め、関東圏を主に支配していきました。
ただ元々秀忠の側近に配置されていた正信だったので、家康の意を受けて秀忠との2人体制で幕府の政治を推し進めていきました。
このように正信は家康を生涯サポートし、主従関係を超えた友情で結ばれ、2人は最後まで一緒だったのです。
2人が生涯盟友たらしめたもう1つの理由としては、家康の没後、後を追うように正信も静かに息を引き取ったことなどが挙げられると思います。
縦社会の厳しい江戸時代において将軍である家康とここまで身分差や垣根のない関係性を築けたのは、正信が最初にして最後でしょう。