徳川秀忠(とくがわひでただ)

ーー良くも悪くも2軍ポジション

 

初代江戸幕府を開いた徳川家康、さらに3代目将軍である徳川家光に比べ、その中間にあたる秀忠はどうも影の薄い印象を受けませんか?

徳川家康は日本史に残る有名な人物であり、波乱の戦国時代を生き抜いてきた初代江戸幕府の将軍です。

徳川秀忠は家康の息子にあたる存在であり、本来であれば秀忠は家康と同じく歴史的に語り草となる存在でしょう。

しかしなぜかパッとしない。

いや、パッとしないというより『影武者』という表現のほうがしっくりきますね。

それはなぜか、そのトリビアを探るため、私は現存するいくつかの文献や歴史書を紐解いてみました。

 

ーー人生最大の失態

 

徳川秀忠は日本史に残る歴史的な合戦、『関ヶ原の戦い』にて致命的な失態を犯してしまうんです。

それは戦地に到着するまでの『遅参行為』。

つまり、徳川家の命運も左右する歴史的な戦いにおいて、秀忠は家康が戦闘する現地まで大幅にタイムロスしてしまい、戦況を揺るがす事態にもなりました。

秀忠の加勢が遅れたばかりに家康の軍は思わぬ苦戦を強いられますが、手を変え品を変え、あらゆる戦略を使い果たして辛くも勝利したのです。

そのタイミングで秀忠の軍が到着したものの、すでに戦闘は終了していました。

 

家康は秀忠への家督継承権の譲渡を関ヶ原の大失態を理由に拒絶し、しばらく疎遠になっていました。

しかししばらくして家康のほとぼりが冷めたのか秀忠に家督継承権を譲り、自身は御家人として将軍の側近を務めました。

ではこの失態がなぜのちの秀忠影武者論に結びつくのか、ここで疑問に思う方もいるでしょう。

 

秀忠は自らの失態を恥じて大名や御家人の前では謙遜して振る舞い、いわば初代将軍・家康のような為政者としてのオーラや威光はまるでなかったそうです。

これが原因で戦場でも歴史に残るような武勇を成し遂げることはできず、1・3代将軍が強すぎたばかりに”中間管理職”止まりになってしまったのです。

しかし、徳川家康没後、ついに幕府の実権を秀忠が握ることになります。

 

秀忠はそれまでの謙遜な振る舞いを捨て、偉大な為政者として幕府を運営し、謀反の疑いがある大名や御家人を次々に改易・転封させ、自らの権力基盤を固めていきました。

しかし謙遜な振る舞いは捨てたといえど、やはり根は腰を低くする傾向があり、為政者としては少し異質な存在でした。

大阪冬の陣・夏の陣で謀反を起こした豊臣家と断絶し、豊臣家を滅ぼした秀忠。

これは家康存命中の出来事ですが、その処遇は全て秀忠に委ねられていました。

 

しかし秀忠はためらうことなく豊臣家に切腹を命じ、禍根を絶ったのです。

これは家康の前で甘い処遇をすれば自らの危険も及ぶという、ある種の防衛本能から生じるものなのか、あるいは今までの自分とは違うぞっていう権威を示したいのか、真相は不明です。

ですが、家康に過去の失態を咎められ、恥の上塗りをするわけにはいかず非情な判断を下した、というのが最も有力な見方です。

 

つまり根はやはり謙遜。

為政者として、「自分が1番になりたい」「独裁者になりたい」という野心的な願望とはほぼ無縁だった秀忠。

現に死に際では自分の葬儀は静かに弔ってほしい、という秀忠たっての願いにより縁者のみでの葬儀が開かれたともいいます。

 

秀忠の謙遜な振る舞いは、生まれながらの賜物。

それゆえに存在感は薄いものの、やはり為政者としてはできた人物であったことは間違いありません。

秀忠は生涯2軍ポジションのまま人生を終えた稀有な存在と言えるでしょう。