ーー歴史的な移転に一体何があったのか?
50代天皇・桓武天皇が治める平城京は、仏教の色が強い都であり、さらに山や丘陵に囲まれた立地の悪さもあり、桓武天皇は平城京から長岡京に拠点を移し、遷都を決意します。
ちなみに桓武天皇が平城京を去った理由は、桓武天皇の母親が代々百済の血筋を引く家系だったこともあり、仏教色が強い平城京では反発を招きやすい・・というもの。
前回記事に挙げた氷上川継による謀反計画もそのような理由から来ています。
さらに長岡京には自身の優秀な側近である藤原種継(ふじわらのたねつぐ)がおり、助言を得るには都合の良い場所だったのです。
また、川が多くあったこともあり、水運の要衝として栄えました。
そんな中で移築を開始し、長岡京の普請(ふしん・建築工事)に着手しますが、思わぬトラブルがここで相次ぐことになります。
桓武天皇はそれを予期していなかったため、新天地・長岡京での暮らしに期待していました。
ーー優秀な側近・種継の暗殺
まず桓武天皇に臣従していた優秀な部下、藤原種継が矢を射られ、暗殺されてしまいます。
桓武天皇は謀反に関わった犯人の洗い出しを行い、関係者全員を捕縛しました。
ことは順調にいくかと思いきや、ここで予想外の事実が浮き彫りになりました。
それは桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)までが、種継の殺害に関与していたと嫌疑をかけられ、幽閉されてしまうのです。
早良親王は断食による無罪を主張しましたが、結局罪は晴れずに流罪となり、配流先の淡路に到着する前に衰弱死。
これで一件落着だと思っていた桓武天皇ですが、ここから悲劇の連続が相次ぎます。
まず桓武天皇の身内や知己、縁者が次々と謎の死を遂げ、多くが病に伏せ、都は一大事となります。
それでも長岡京の建設をやめない桓武天皇でしたが、そこで追い討ちをかけるかのように氾濫による大規模な水害が起こり、長岡京での建設を中止せざるを得なくなりました。
10年ピッチで進めていた長岡京での建設は中止を余儀なくされ、再び平城京に拠点を移すことになるという、前代未聞の歴史的出来事になったのです。
当時の日本では言霊や豊年祭など、自然現象やオカルトにまつわる伝承が多く語られていたので「呪詛」という行為も固く禁じられていました。
これは当時の日本がどれだけ霊現象による祟りや怨霊などのオカルト話を信じ切っていたかを如実に表す良い例と言えるでしょう。
それを認識しているためか、途中で進めていた長岡京の建設を取りやめ、平城京に拠点を戻した桓武天皇。
10年足らずで取り壊し(解体)になった長岡京の事実にちなんで、多くは長岡京のことを「幻の都」と呼ぶみたいですね。
実際、復元された長岡京を見ると、相当な力の入れようだったことがわかり、完成の名残をいまだにとどめています。
あとちょっとで完成・・というところで思わぬ悲劇やトラブルが相次ぎ、平城京に戻らざるを得ないという苦渋の決断を下した当時の桓武天皇の無念は、察するに余りありますね。