坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

ーー伝説エピソードに枚挙がない英雄

 

平安時代、朝廷から英雄として讃えられ、伝説エピソードに事欠かない『坂上田村麻呂』。

優れた武芸を持ち、数々の戦功を挙げたことで有名です。

その中で特に知られているのが、かつて平安時代に東北地方を支配していた蝦夷との戦いでしょう。

朝廷は西日本に都を置き、その一帯を支配していました。

坂上田村麻呂は朝廷に属する軍人であり、何万にものぼる蝦夷の軍勢を打ち破るため、蝦夷の討伐に赴きました。

そして蝦夷との激戦の末に勝利し、坂上は英雄として崇められるようになります。

無論、朝廷からのお墨付きで、目覚ましいほどの出生街道を歩みました。

 

ーー坂上田村麻呂の優れた人情・義理堅さ

 

しかしこの「優れた軍人」という評価だけで終わらないのが、坂上田村麻呂を伝説たらしめる1つの理由です。

 

簡潔に説明すると、坂上蝦夷の元締め、アテルイという人物と対立しており、蝦夷との戦いに勝利したことでアテルイは降伏するのですが…

普通の人間であれば手柄ほしさに敵の首を取るでしょうし、アテルイはそういう意味で坂上にとっては絶好の踏み台だったのです。

その場で切り伏せ、敵の亡骸を朝廷に見せる。

おそらく歴史人物の多くはそうしたことでしょう。

 

しかし坂上は予想外の行動に出るのです。

アテルイは確かに対立していた敵ですが、その敵の武功を認め、アテルイを許すことにしたのです。

ここまで慈悲深い人物はそう多くはいないでしょう。

ほとんどの人間は問答無用で切腹を命じるでしょうし、そうでもしないと自分の立場がないですからね。

 

助命を願うアテルイを寛大に許し、朝廷へその旨を直談判する坂上

しかしそんな坂上の願いもむなしく、アテルイはその場で斬首刑に処されてしまうのでした。

朝廷に楯突いたアテルイは、現代でいう日本政府に楯突くような存在です。

つまり国家転覆を図るテロリスト集団などとほぼ同じの危険分子だったのです。

歴史において繰り返される謀反や、あり得ないまでの下剋上を果たし天下を取った者、小さな反乱勢力が自分たちの政権を揺るがしかねない存在になる、という前例が多くあったからこそ朝廷はアテルイの助命を拒んだのでしょう。

坂上はおそらく悲しんでいたでしょうが、朝廷の命令には逆らえず、無念だったのでしょうね。

 

ここまで書いても分かる通り、坂上田村麻呂は人物的にもよくできた朝廷の軍人だったと言えますね。

普通、自分たちに反旗を翻した敵の存在は、どんな理由があっても受け入れ難いもの。

幸い坂上の慈悲により一命を取り留めたアテルイでしたが、朝廷にアテルイを迎え入れてしまったことが坂上の最大のミスでしょう。

朝廷が敵視するアテルイを都に入れてしまえば、敵のテリトリーに足を踏み入れるのとほぼ同じですからね。

 

とはいえ、その場で降伏したアテルイを逃しても今度は自分が幇助罪に問われてしまいますから、難儀な問題ではありますね…。

大老・老中(たいろう・ろうじゅう)

ーー主要な役職

 

 

江戸幕府では権威ある2つの役職が存在し、最高職として位置付けられていました。

老中は幕府の主な運営執行権を持ち、幕政を司る役職です。

つまり、江戸幕府初代将軍の徳川家康と同等の権限を有していたことがわかります。

ちなみに大老は老中のさらに上の位に位置する役職であり、今でいう首相や官僚などの存在に近かったと言われています。

ただ、この大老という役職はあくまで外敵が攻め込んできたり、幕政の根幹を揺るがす一大事のみ効力を発揮するもので、基本的にほとんどの職務は老中があたっていました。

つまりさながら名誉職、根本的な運営権や発言権などはほぼ形骸化していました。

幕末までこの役職が存在していれば、もしかしたら大老の活躍するシーンがあったかもしれませんね。

幕末では日本に開国を迫るペリー来航で民衆のみならず、日本自体が浮き足だっていました。

外交や通商なども大老の役目に位置付けられていたので、大政奉還で2つの役職が廃止される前にペリー来航が叶っていれば…みたいに考えてしまいますよね。

まあ、過去の話なんで、今更どうこう言おうが変わらないのですが。

 

ーー現代で例えるなら

 

ちなみに徳川家康の役職は、征夷大将軍というもの。

大老でも老中でもなく、武家政権が成立して以降の役職、征夷大将軍の任務にあたっていたのです。

これも最高職として位置付けられ、幕政の大元は老中と征夷大将軍の2頭体制で行われていました。

ちなみに家康は1万石にものぼる領地を譜代大名に与え、支配の範囲を広げていました。

譜代大名というのは、前回の本多正信の父親がそれに当たります。

家康の側近として仕え、永遠のズッ友・正信も4歳の頃に家康に従い、交流を育んでいきました。

譜代と肩書きがあるだけで、家康のもとで仕えたり、本戦に参加したりと幅広い人脈を持つことができたのです。

大老・老中は、現代でいう官僚と閣僚の関係性に近いと思います。

法的執行権はほぼ官僚に委ねられているものの、平時とは異なる緊急事態や、イレギュラーな政策決定、国政に関与するのは閣僚…といった感じに、TPOに応じて2つの重要な役職を使い分けているのが特徴です。

ただ、大老はほぼ文献や歴史書にも詳細がないので、ほぼ名ばかりの役職だった可能性がありますね。

本多正信(ほんだまさのぶ)

ーー家康の永遠の忠臣・本多正信

 

本多正信江戸幕府初代将軍・徳川家康の参謀(当時として最高職に相当する地位)につき、家康が没する日まで生涯家康に尽くしました。

皆さんは忠臣と聞くと「命令や任務に忠実な人」であったり、「謀反を起こさない人」というイメージが強いでしょうが、実はこの正信は過去に家康を裏切ったことがあります。

将軍に反旗を翻したにもかかわらず、なぜ家康と主従関係を超えた友情で結ばれ、2人は仲良くやることができたのでしょうか?

彼の人生を紐解けば、その片鱗が少し見えてくるかもしれません。

しかし家康との詳細な親密度は不明です。

どれくらいの関係だったのか知る由はありませんが、あくまで参考程度にとどめてください。

 

ーー家康といっしょ! の正信

 

本多正信松平氏の家系に生まれ、父親や祖父は代々譜代(ふだい)を務めてきた家柄です。

正信は4歳に家康に仕え、幕府側の人間になりますが…

永禄6年(1563年)、三河一向一揆(みかわいっこういっき)が起き、正信は一揆側について家康に敵対心をあらわにするのです。

翌年、家康の軍勢が押し寄せ、正信は放浪に次ぐ放浪の末、加賀(石川県)に落ち延びました。

 

その後、正信が家康のもとに戻ってきた時期は定かではありません。

 

一説によれば、正信が元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」で軍功を上げ、それを理由に過去の失態は不問にされた、との事。

ここら辺の詳細は定かではありませんので、敵対した家康とどのようにして関係を修復したのか、謎の深い部分が多いですね。

 

おそらく家康は本能的な意味で正信に対してだけ実子に近い特別な感情を抱いていたのかもしれません。

(ただ秀忠に対しては厳しい父親でしたが)

 

さらに正信は家康の参謀として活躍し、正信には1万石に相当する領地を与えられたと言います。

その後、歴史的な大戦「関ヶ原の戦い」が勃発し、このときは正信は家康の息子・秀忠に従い、秀忠が遅参行為をしてしまうために本戦には参加できませんでした。

 

その後、幕府の中核を担い、家康の参謀かたわら側近として務め、関東圏を主に支配していきました。

ただ元々秀忠の側近に配置されていた正信だったので、家康の意を受けて秀忠との2人体制で幕府の政治を推し進めていきました。

 

このように正信は家康を生涯サポートし、主従関係を超えた友情で結ばれ、2人は最後まで一緒だったのです。

 

2人が生涯盟友たらしめたもう1つの理由としては、家康の没後、後を追うように正信も静かに息を引き取ったことなどが挙げられると思います。

縦社会の厳しい江戸時代において将軍である家康とここまで身分差や垣根のない関係性を築けたのは、正信が最初にして最後でしょう。

徳川秀忠(とくがわひでただ)

ーー良くも悪くも2軍ポジション

 

初代江戸幕府を開いた徳川家康、さらに3代目将軍である徳川家光に比べ、その中間にあたる秀忠はどうも影の薄い印象を受けませんか?

徳川家康は日本史に残る有名な人物であり、波乱の戦国時代を生き抜いてきた初代江戸幕府の将軍です。

徳川秀忠は家康の息子にあたる存在であり、本来であれば秀忠は家康と同じく歴史的に語り草となる存在でしょう。

しかしなぜかパッとしない。

いや、パッとしないというより『影武者』という表現のほうがしっくりきますね。

それはなぜか、そのトリビアを探るため、私は現存するいくつかの文献や歴史書を紐解いてみました。

 

ーー人生最大の失態

 

徳川秀忠は日本史に残る歴史的な合戦、『関ヶ原の戦い』にて致命的な失態を犯してしまうんです。

それは戦地に到着するまでの『遅参行為』。

つまり、徳川家の命運も左右する歴史的な戦いにおいて、秀忠は家康が戦闘する現地まで大幅にタイムロスしてしまい、戦況を揺るがす事態にもなりました。

秀忠の加勢が遅れたばかりに家康の軍は思わぬ苦戦を強いられますが、手を変え品を変え、あらゆる戦略を使い果たして辛くも勝利したのです。

そのタイミングで秀忠の軍が到着したものの、すでに戦闘は終了していました。

 

家康は秀忠への家督継承権の譲渡を関ヶ原の大失態を理由に拒絶し、しばらく疎遠になっていました。

しかししばらくして家康のほとぼりが冷めたのか秀忠に家督継承権を譲り、自身は御家人として将軍の側近を務めました。

ではこの失態がなぜのちの秀忠影武者論に結びつくのか、ここで疑問に思う方もいるでしょう。

 

秀忠は自らの失態を恥じて大名や御家人の前では謙遜して振る舞い、いわば初代将軍・家康のような為政者としてのオーラや威光はまるでなかったそうです。

これが原因で戦場でも歴史に残るような武勇を成し遂げることはできず、1・3代将軍が強すぎたばかりに”中間管理職”止まりになってしまったのです。

しかし、徳川家康没後、ついに幕府の実権を秀忠が握ることになります。

 

秀忠はそれまでの謙遜な振る舞いを捨て、偉大な為政者として幕府を運営し、謀反の疑いがある大名や御家人を次々に改易・転封させ、自らの権力基盤を固めていきました。

しかし謙遜な振る舞いは捨てたといえど、やはり根は腰を低くする傾向があり、為政者としては少し異質な存在でした。

大阪冬の陣・夏の陣で謀反を起こした豊臣家と断絶し、豊臣家を滅ぼした秀忠。

これは家康存命中の出来事ですが、その処遇は全て秀忠に委ねられていました。

 

しかし秀忠はためらうことなく豊臣家に切腹を命じ、禍根を絶ったのです。

これは家康の前で甘い処遇をすれば自らの危険も及ぶという、ある種の防衛本能から生じるものなのか、あるいは今までの自分とは違うぞっていう権威を示したいのか、真相は不明です。

ですが、家康に過去の失態を咎められ、恥の上塗りをするわけにはいかず非情な判断を下した、というのが最も有力な見方です。

 

つまり根はやはり謙遜。

為政者として、「自分が1番になりたい」「独裁者になりたい」という野心的な願望とはほぼ無縁だった秀忠。

現に死に際では自分の葬儀は静かに弔ってほしい、という秀忠たっての願いにより縁者のみでの葬儀が開かれたともいいます。

 

秀忠の謙遜な振る舞いは、生まれながらの賜物。

それゆえに存在感は薄いものの、やはり為政者としてはできた人物であったことは間違いありません。

秀忠は生涯2軍ポジションのまま人生を終えた稀有な存在と言えるでしょう。

前田利常(まえだとしつね)

ーー稀代のかぶき者・前田利常

 

戦国時代〜江戸時代にかけて活躍した歴史人物は、どんな人物であれ印象に残るエピソードや伝説が多いです。

その中でも特に異彩を放っているのが『前田利常』(まえだとしつね)という、安土桃山時代に名乗りをあげた加賀藩の3代藩主、前田利家の3男にあたる存在です。

みなさんが想像する戦国時代での歴史人物といえば、織田信長豊臣秀吉などの人物が候補として挙がるでしょう。

この2人は各地で戦功を上げ、驚異的な出世スピードで瞬く間に時代の寵児となりました。

戦功とは、いわゆる『戦闘で残した功績』。

その功績を讃えられて2人は出世街道を歩みました。

2人は戦闘力以外にも為政者としても優秀であり、ときに歩みを止め、築城や水運などのインフラ整備にも力を入れていたと言われています。

ただ戦闘の駆け引きや知略に長けているだけでは、生き馬の目を抜くような厳しい戦国社会では到底やっていくことはできない。

2人は戦いの策士であり、同時に名君でもあったわけです。

 

そして前田利常もその2人と似たようなことが言えるわけです。

いわゆる2人のように目覚ましい戦功を上げたとかそういうものではなく、人に取り入る駆け引き的アプローチ、いわゆる”交渉ごと”が得意だったのです。

前田利常は豊臣秀吉徳川家康との良好な関係を保つために、相手の気が触れないよううまく駆け引きしていたと言われています。

 

例えば前田利常が属する加賀藩は徳川家との折り合いが悪く、たびたびトラブルに見舞われていたそうです。

中には徳川家との戦争にまで発展しかねない、一触即発の事態を窮することもありました。

しかし前田利常はそのたびに自分の嫁と相手の嫁を人質として交換し、徳川家とのトラブルを避けていたといいます。

 

また、そういった交渉ごとや駆け引きに限らず、前田利常は変装の名人でもありました。

現代でいう『鼻毛』を他人から見えるくらいの長さまで真下にビヨ〜ンと伸ばし、下馬と書かれた表札を無視して馬に跨ったり、大名との挨拶を無視するなど、うつけを装いつつ、相手の目を欺いていたと言われています。

これは相手に優秀な自分を悟られないよう、あらゆる馬鹿を演じて相手(徳川家)の警戒心を解く狙いもありました。

そうしていつまでも加賀藩の存続と、国の安泰に向け、幕府と良好な関係を維持してきました。

 

歴史において1人能力的に際立った人物がいると、ときの為政者はその人物を徹底マークして排除するよう働きかける傾向があります。

人物的に出来た人は、いわば嫉妬や憎悪の対象なのです。

民衆からの信頼が厚いと暴動やデモクラシーの危険性が高まる、というジンクスを把握していたために前田利常はあえて幕府・徳川家の前では自らの才覚を消して馬鹿を演じていたのでしょう。

 

まさに策略家と言いますか、天才的な駆け引き能力ですね。